音楽的断章 ー いくつかの私見

大野眞嗣

2.日本のピアノ教育についてー主流とされるタッチについて

なぜ日本では、音の立ち上がりをしっかりさせ、はっきりとした太い音が良いとされているのでしょうか?

まず、専門的に勉強しようとなると、多くの教師は、生徒に指の弱さを指摘し、ハノン教則本やチェルニー教則本を使用して、指の強化、独立性などを目的に教育がなされます。

これは、短い期間で、速く、粒のそろった、しっかりとした音の演奏のためには効果的であると認めます。ただ、このような音は、美しい伸びのある響き、言い換えるならば音色が伴っていないのが現実です。このような音で奏する演奏は、表情が乏しく、表現は強弱のみやテンポの変化に頼るだけのものにしかならないのです。

なぜ、ピアノを弾くときの発想の中に、音色の観点がないのでしょうか?

確かにイメージを考えることはありますが、現実の音として表現する教育がなされていないのではないでしょうか。

その理由の1つに、日本の住宅環境と気候が関係していると思います。

高い湿度と狭い空間に問題があります。例えば、極端ですが、じゅうたんを敷いた和室にグランドピアノを置いて、しかも指の強化のために、ピアノの本体の蓋は開けずに、楽譜台をピアノの上に載せ練習するといった方がいるほどです。

これでは、たとえ響きを聴こうとしても、音の立ち上がりしか聴こえてこないのです。大切なことは、その部屋の空間に広がってゆく音の響き(音の伸び)の部分を生み出し、意識して耳を使うことです。ヨーロッパで生まれたピアノという楽器で、ヨーロッパで作られた作品を弾くということなのですから、そこには、そのような環境を念頭において練習することが大切に思います。

あと、元来日本人の多くは、何事に対してもきちんとする、ということが美徳となっていると思います。その意識が災いしてか、きちんと鍵盤の底まで弾く、きちんとしっかり鳴らす、というようなことが正しい奏法だと信じていると思います。確かに、そう弾くことによって、すっきりとする感覚を覚えるはずです。

しかし、この感覚が演奏するという意味において、また、芸術を作るという意味において、本当に正しいことでしょうか。これでは、ピアノを弾くということが、まるで何かの作業に等しいのではないでしょうか。私自身のレッスンで、もし生徒がそのように弾いている場合、「弾きすぎ」という言葉で指摘します。大抵は、長年の訓練によって身に付いてしまっているため、無意識のうちにそうなっていますが、鍵盤の底を長い時間、押さえ込みすぎているのです。この「弾きすぎ」を回避するということは、楽に弾くという意味の合理的な奏法にもつながるのです。

きちんと弾くという感覚ではなく、さりとて、でたらめというのでもなく、頭と耳の訓練にたっぷりと時間をかけて、タッチそのものだけでなく、演奏行為全体の本質を感覚で知るべきです。

 


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