音楽的断章 ー いくつかの私見

大野眞嗣

耳の感覚

日々の私のレッスンにおいて、よく思うことなのですが、私がある特定の音色にこだわって弾いて聴かせ、それを生徒に要求したときに、技術的な問題が理由で、そのような音色が出せないということではなく、それ以前に、その生徒に聴こえていない、または、感じ取っていないということがあります。

また、初めて私のところにレッスンを受けに来た生徒が、音色の違いを聴き分けられるかどうかも、大変難しく、どちらかというと聴こえない生徒のほうが多いように感じますし、もしそうだったとしても、時間をかけることによって、だんだん聴こえてくるようになる人のほうが多いようです。

そういう私も、本来は音色に対して無頓着だったわけで、そのように意図的に耳を使うようになって、だんだん聴こえてきたものです。結果として、素晴らしいと思って聴いていたCDが、実はそうでもなかったと思うようになりましたし、また、その逆もあります。

自分自身の演奏に対する聴き方、もしくは耳の使い方に、いかに音色の観点が希薄だったかを思い出します。ですから、ザルツブルクの夏期講習会でバシキーロフやニコライエワの音色の素晴らしさ、多彩さを聴き取ることができたのは、ある程度、音色の観点からピアノ演奏を捉えることに目覚めていたためで、多分、それ以前の私には、それほど感じなかったのかもしれません。また、そこにいた受講生、全員が私と同じような感銘を受けていたかは、疑問に思います。

以上のような、私自身の経験や生徒たちの様子から、耳というものは、実は聴いているつもりでも、聴こえていないのだと実感します。日本において、徹底した教育を受けた人ほど、その傾向は強いように思います。「奏法について」でも、述べていますが、立ち上がりがはっきりとした音が良いと訓練されていることと、演奏するときの意識の問題なのですが、自分の音を聴く意識よりも、弾く意識のほうが強いように感じます。

ですから、興味深いことに、ピアノをまったく弾かない、愛好家のほうが、耳の感覚、言い換えるならば、音に対する感受性が鋭い方がいるほどです。

本来、音には、言葉で例えるならば、たくさんの種類の形容詞がつくはずです。それを聴く人に感じさせる演奏ができるような、演奏を目指すことが大切です。そのためには、聴き分けられる耳を作ること、そして、それによって感受性が鋭くなることを、日々の練習やレッスンにおいて訓練しなければなりません。 

  


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