響きを豊かにするために ー ピアノ演奏における芸術的表現

大野眞嗣

6.私にとっての合理的奏法 ー 脱力の重要性

(1)スケールにおける基本

スケール音型を弾くとする時、重要なことが打鍵そのものにあります。これには音色のみならず合理的奏法という観点からも重要であり、それには脱力が大きく関わってきます。

ピアノの鍵盤の深さを考えてみることが重要です。実際には1cmにも満たないほど浅いわけですが、これに対して、一般的に早い音型になるに連れて2,3cmも指先が上下しているように見受けられます。本当に脱力した状態ならば、動きが大きくなっても響きは失われませんが、一般的には脱力が不完全なまま大きく動かしています。そのような場合、それぞれの音を必要以上に押さえ込んでしまうことになってしまい、必然的に響きは失われがちです。また、打鍵距離が長くなるにつれ響きが失われるどころか濁って汚くなってしまいます。そもそも、手を丸く構えただけでも無意識のうちに指自体に力が入りやすいはずです。

これを指の筋肉にほんの少し電流が流れている状態に例えることができます。仮に、その指先に小さな豆電球がついていると想像した場合、この豆電球がうっすらと明るく灯っていると言ってもいいでしょう。そのような状態では脱力しているとは言えず、全く明りが灯っていない状態をイメージして構えることが、脱力ができていることなのです。

そこで、いざ1音を打鍵するとします。指先には小さな豆電球がついており、この豆電球に必要な電流、1ボルトの電流をその指だけに流す。それも一瞬だけです。長く流せば鍵盤を押さえ込むことになってしまうし、一般的なタッチでは1ボルトどころか何倍もの電流を必要以上に流すことになっています。そのときに他の指の豆電球が絶対に灯ってはなりません。

要するに必要な指だけに瞬間的に必要なだけの力を使って打鍵する。これが達成された時、しかもある一定以上の速度の音型を弾くほど実感することは、弾いているという感覚よりも、指の脱力によって鍵盤が戻ろうとする浮力を感じるようになり、指が鍵盤に張りついているような感覚になります。

実際にこのように弾くことが自然になるまでは、相当な時間を要するのが一般的ですが、これは指の訓練というよりも、耳と脳の訓練なわけです。このことは、弱音でゆっくり奏するとわかりやすいように思います。そして手首の内側や前腕の内側で鍵盤に対して重みのコントロールをすることにより音量はもちろん、音色の変化も可能になってきます。

このような響きで弾く演奏になると、特に右のダンパー・ペダルの役割も音を伸ばすためと言うよりも、その音に次の音を混ぜていくと言ったような音色の変化のための存在として実感されるはずです。このような豊かな響きを伴った音が連なってこそ、本来のレガート、「響きのレガート」が達成されるのです。

またこれによって、奏者は楽器や作品との本当の対話を実感することとなります。自らが楽器や作品に向って何かをするという意識よりも、楽器や作品との一体感を憶えるはずであり、1つの円を描くような循環が生まれます。実際に音が伸び、響きが豊かになると、その響きに自分自身が包まれるような感覚を覚え、それを聴きつつ奏して行くこととなります。

(2)自然な音楽

先に、粒をそろえるのが良いと言うことに違和感があるとしましたが、それはなぜなのかを、次に考えてみたいと思います。

元来、音楽というのは楽器で奏する以前に、人が声で歌うことに始まりました。「音楽的」といっても、様々な解釈があると思いますが、根源的に考えるならば、上手い下手はあっても人が自然に歌うことにあると思います。声楽は根源的な「楽器」と言い換えてもいいと思います。なぜそれが音楽的かといえば、最終的にはそれを聞いていて心地よいからです。一般的に声楽、弦楽器、管楽器の奏者の方がピアノ奏者よりも、よほど音楽的に自然に演奏しているように思います。

そこには例えて言うならば音楽上の「放物線」が存在します。なぜなら、物体を上に投げ、引力によって落ちてくる時の自然な放物線を描くように音楽も存在するべきであるというのが自然の理にかなっています。和声の進行やリズムによって、それぞれの音楽が独特の瞬間、緊張と緩和を作り上げるように、奏者は技術と知性と感性によってそれを自然で音楽的に奏するべきです。和声と言うある程度まとまった音の範囲はもちろんですが、1音と1音との小さな範囲の関係にでも、それぞれの音の陰影が存在します。

この感覚を演奏に反映させることで、より自由な発想が生まれます。作曲家が楽譜に残したものは記号であり、それを表面的にとらえるだけでは、演奏家の役割を果たすことにはなりません。もちろん、自由な発想といっても音楽上の法則を無視していいというのではなく、それぞれの作曲家、作品の様式感を踏まえた上での自由です。粒をそろえてしまう、言いかえれば、そろえすぎてしまうことは、この自然の法則に反することとなり、聴いているものが自然な心地良さを感じることはできないはずなのです。

以上にあげた奏法をもとに自然な音楽を実践している演奏家はたくさんいると思います。私が指導を受けたロシア人ピアニストのドミトリー・バシキーロフ、イギリス人ピアニストのマイケル・ロール、カナダ人ピアニストのキャサリーネ・ヴィッカース、そして有名な演奏家で思いつくところ、マルタ・アルゲリッチ(アルゼンチン)、イーボ・ポゴレリッチ(旧ユーゴスラビア)、ダン・タイ・ソン(ベトナム)、グレゴリー・ソコロフ、エリソ・ヴィルサラーゼ、ミハイル・プレトニョフ、エフゲニー・キーシン(ロシア)、アレクサンダー・ガブリリュク(ウクライナ)、ラン・ラン(中国)など国籍を問わず全世界に存在しています。



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