大野眞嗣
私がピアノの音色に対して具体的に目覚めたのは、恥ずかしながら既に音大に入学して数年の後のことでした。それは恩師の何気ない言葉に触発されてのことだったのです。
あるピアニストのリサイタルの終演直後、その演奏に対して「今日の演奏には残念だが音色が2色しかない・・・」。その時の私の頭の中には、「音色とは何だろう」という文字が浮かびました。
それまでの私は、だれかの演奏、そして自分の演奏を、音色という観点で捉える感覚が非常に希薄でした。もちろん、人それぞれが固有の性質の響きを持っていると感じてはいました。その点に関しては、今でも異論はありませんが、それはその人の生まれ持った音としてのみ、私の頭の中で簡単に認識していたに過ぎませんでした。しかし、その後の私は、演奏をより深く探求していくに従い、音色というものの認識が大きく変化することになったのです。
聴く人々に感動を与える素晴らしい演奏には、単にその人の持っている音色という狭い範囲を超えて、作曲家や作品に沿った、より多彩な音色の表現が存在します。
それは、ピアノという楽器の特性を知識と経験によって具体的に技術的観点から習得することと響きを聴き分ける耳の鍛錬、作曲家や作品に対しての知識や基本的な音楽上の文法(和声やリズムが関わる)に基づく解釈などの知性、そして、それらを合致させる心の感性が必然とされます。
ある作品のある部分を弾く時に、その作品の意味するところを「思えば」もしくは「感じれば」、変わるといった精神的な思い込みのみでは、残念ながら何も変わらないのではないか。
その前に、基本的な音色の変化に対する技術が存在し、それが鍛錬によって自らと一体になって、自然に存在することとなった時にのみ、思っただけでも変化して行くことがより可能になると思われます。それに加えてそこには、より合理的な奏法についても考えてみる必要があります。
大学3年のころだったと思いますが、いわゆる弾くという意味において、自分の奏法に限界を感じ始めていました。世の中には、自分よりも表情豊かに、自然で楽に弾いている演奏家がたくさんいると思えていました。
何かもっと根本的に合理的な奏法があるはずでは?と内心思い、焦りながらも、日々研究していましたが、答えは見つかりませんでした。そして、留学することによって、それを見つけようと決心しました。その結果、最終的に実感したことは、「音色の豊かさ」と「合理的な奏法」の一致でした。
そもそもピアノ演奏において良いとされる音色とは何でしょう。これは感覚的なことなので、人それぞれ音の良し悪しの判断は違うものと思います。ここで述べるのは、あえて私個人の今までの経験から感じられるようになった趣向であって、それ以外の感覚や思考に基づく演奏を否定するものではありません。