大野眞嗣
(1)基本的な手の配置と支点
レガート奏法を「指のレガート」から「響きのレガート」にするためには、タッチそのものを変える必要があると前に述べましたが、そのタッチの基本とはなんだろう?言いかえるならば、より音楽的かつ合理的な奏法とは?
ここでは、文章表現のみでは理解していただくことは難しいと思いますので、参考程度にお読みいただければ幸甚です。
私自身の経験から以前の奏法を分析してみると、指は比較的丸くし、手を鍵盤に対してまっすぐ(指は鍵盤に対して平行)配置し、指の付けの根の関節から打鍵します。その際、指先の関節や付け根の関節、または指全体を支点にして、手首は比較的低めにし、肘、肩を楽な状態に保ちつつ、腕の重みを逃がす時には主に肘を外側に移動させます。
例えばスケール音型で上行する時、手全体を鍵盤に対してまっすぐに配置するために、手首、肘も同じように移動して行きます。なぜならば、そうすることによって、指そのものがいつも楽に動かせる状態を保つためです。
それに対して、現在の私の奏法は、指の角度は臨機応変に変化します。手のひらを鍵盤に対してまっすぐに配置することは基本的にはなく、外側に斜めにするか、場合によっては同様に内側にします。
打鍵は指の付け根の関節とともに、手首が上に連動することが多くあります。その際、支点は指の付け根の関節の内側(手のひら側)にし、同時に手首の内側もしくは前腕の下側で支えます。
指全体を出来る限り脱力し、角度が変化することはあっても関節で支えることはありません。むしろ、そのような奏法によって長い期間練習することによって、指の内側に支える筋肉が発達し、その筋肉に頼ることが出来るようになるため、関節に頼ることなく指そのものを脱力することができます。
肘は楽な状態を保ちつつ、手のひらが鍵盤に対して斜めに配置することが多いため、それに連動して配置が変わります。
例えば右手の場合、スケール音型で上行する時は内側に移動し、下行する時は比較的外側に移動します。ちなみに手のひらを鍵盤に対して斜めに配置すると、手首が高めになり、上腕と前腕の重みが乗りやすくなるとと同時に指が上に上がりにくくなり、指の動きだけに頼ることはなくなります。
これが腕の重力を利用した奏法であり、響きの面だけでなく、現時点で、私の考えうる最も楽で、合理的な方法です。
(2)手のひらの左右の重心
手の配置を考えるときに、鍵盤に対して指が並行ではなく、少し斜めに構えるということを申し上げました。その際、重要なことがあります。
左右、両手とも、1か5の指に重心を感じるということです。
一般的な奏法の場合、弾いているそのものの指に重心を感じることになると思いますが、この奏法の場合、基本的には1か5の指という外側の指に重心を感じることが大切なことになります。
中でも、5の指はとても大切な役割を担っていることが多いと思います。そのほかの指を弾いているときも、手首の下の筋肉で前腕を支えながら、5の指に重心を感じることになります。そうすることによって、他の指の脱力をしたまま打鍵することができます。また、大切な音を1の指で打鍵せねばならないときや音型によっては、重心が5から1へと移動します。これは合理的な奏法という意味で大変重要です。
例えば、ショパンのピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21 第1楽章 の展開部のパッセージにおいて(第225小節〜第228小節)、右手は5の指に重心を保ち続けます。しかし、左手の第225小節の上行音型は1に重心を感じ、第227小節の上行音型は5に重心を感じて弾くことで、楽に表現できることを実感するはずです。
(3)F.Chopinの作品から感じられること
「響きのレガート」の奏法が身についた結果、痛感したのが、特にF.Chopinの作品においてです。どの作品においても触れてみて感じたことは、大変おこがましいのですが、彼自身の奏法も非常に似ていたのではないかということです。
例えば、半音階において1から5の指まで使う運指法も自然なことに感じられるなど、楽譜に書いてある音の配列が物語っているのです。
練習曲 作品10の1 ハ長調に代表されるアルペジオの音の配列は、それまでの古典派までの作曲家やチェルニーの教則本のアルペジオには見られない斬新なものです。指の動きで処理するには大変な労力が必要であり、その割に表情の変化はつきにくいものです。
手のひら全体で捉え、手首を中心に腕の重力の移動を使うことによって、その難しさは軽減されます。総じてこの練習曲は指の練習曲集ではなく、「手首の練習曲集」かつ「響きの練習曲集」と言っても過言ではありません。
では、ノクターンのような伴奏音型にメロディーといった作品ではどうでしょう。
まず左手の伴奏は細心の注意を払って弾かなければなりません。基本的に手首の内側で持ち上げながら支え、同時に指の付け根の関節の内側に支点を感じ、2つの支点の連動によってコントロールしながら、場合によっては軽い表情を出す時などはレガートではなく、ダンパーペダルを連動しながらポルタート気味に打鍵します。この際、手首の支えと抜き方のコントロールと同時に指の内側の筋肉と付け根の支点のコントロールで表情を変化させていきます。
そして右手のメロディーの打鍵は表情豊かに歌い上げるために、同様に指のみではなく手首からの音の入り方と抜き方のコントロールが重要です。このような作品において、「ピアノのベル・カント」と称されるような響きが必要で、練習曲集のような技巧的な作品同様、手首が重要な鍵を握っています。
以上のように、F.Chopinはもちろん、その他、F.Liszt、C.Debussy、A.Skrjabin、S.Rachmaninovの作品からも、同じようなことが感じられます。また、その他の作曲家の作品においても、作曲家自身は指の動きを頼りに弾いていたと感じられますが、奏法を変えることにより、その難しさも軽減され、表現の幅も広がるように思います。
(4)L.v.Beethovenの作品から感じられること
技術的な観点において、L.v.Beethovenの作品に触れてみて感じることは、彼自身が古典奏法によりピアノを弾き、その奏法の感覚から音が並んでいるということです。
それは、ピアノという楽器そのものではなく、オーケストラや弦楽四重奏を連想していたように感じます。私個人としては、ほとんどのピアノソナタから弦楽四重奏を思い浮かべることができます。それは、J.Haydnの作品においても同様です。
弦楽器特有の音楽上の呼吸、フレーズの処理があると思うのですが、それをピアノにおいて再現することが大切で自然なことだと思います。そのためにも、「響きのレガート」が、重要なポイントとなると私は考えています。
とはいえ、F.Chopinを弾くときとは異なった色彩感、空間を作り上げなければなりません。弦楽器特有のヴィヴラートを表現するために「響きのレガート」はもちろんですが、様式的にノン・レガートも要求されます。
それには、基本的に腕の重みをより乗せ、ボリュームのある深い音が必要です。
必然的に指を立てぎみにするので、鍵盤に対し手のひらが高い位置にきます。また、そのためには、その重みに耐え、支えることのできる指の筋力が強くなければなりません。決して指の関節で支えてはいけません。それぞれの音は指の内側の筋肉に腕の重さを乗せ、指そのものを脱力し、鍵盤にもたれていきます。その際、手首で同時に重さを逃がしていかないと押さえつけた響きのない音になってしまいます。ですから、F.Chopinの時と同様に、ここでも手首が重要な役割を果たします。
(5)初歩においての教育の違い
ここで子供のための初歩の段階においての教育傾向についての違いについても触れておきます。
かつて私が経験してきたことは、正しい楽譜の読み方とハノン教則本やチェルニー練習曲集を中心に正確に粒の揃ったしっかりした音を出すことに多くの時間を割いてきました。また、年齢と共に作曲家、作品に対する理解という知性を要求されてきました。
それに対して、私の手元に一冊の教材がありますが、『新しいソヴィエト教育システム ピアノ演奏基礎教本』(A・.ニコラーエフ監修 音楽の友社)です。
内容はバイエル教則本程度からソナチネアルバム程度に匹敵するものですが、一見易しそうな作品が大半を占めており、速く機械的に弾くこととは対照的です。
そこには、いかに一つ一つの音を大切に歌い上げるか、すなわち、レガートということに主眼を置いていることが感じられます。
その解説の中にゲンリッヒ・ネイガウス(※1)の言葉が引用されています。
「結局、芸術的な表現を学ぶということは、初歩的なピアノ演奏の訓練と同時に、音楽の基礎知識に慣熟することから始めなければならないのです。もし、幼児が何か非常に単純なメロディーを再現できるとしたら、その初歩的な“演奏”が表現力に富んだものでなければならない。つまり演奏の性格がそのメロディーの性格(内容)に正確にかなっているようでなければならないということを申し上げたい」
以上のように、奏法の基本はレガートにあり、日本においての一般的な奏法とは全く異なったものとなります。そして、それにより実際に弾く時の身体の感覚が違うのは言うまでもありませんが、響きの感覚も耳と連動することによって、全く違ったものが実現可能になってきます。