それぞれの作曲家に対してのアプローチの違い

大野眞嗣

3.ロマン派

(1)フランツ・シューベルト

日本においての学生時代、シューベルトの作品をほとんど弾いたことがなく、聴いていても不思議な感覚にとらわれるだけで、どう曲を捉えてよいのかわかりませんでした。しかし、今では、幸運なことに、最も愛着を感じる作曲家の一人となりました。

オーストリアの秋はとても短く、あっという間に、長い冬を迎えます。街は雪で覆われ、暗くなるのも早く、初めての海外での一人暮らしを始めた私にとって、なんとも形容しがたい不安と孤独感を覚えたものでした。そんな1年目の冬に遺作のハ短調のソナタ、2年目の冬はD.845のイ短調のソナタを弾いていました。当初、わけもわからずに弾いていたのですが、時間とともに、そのような環境のおかげもあって、自分なりに何かを感じ始めたことを記憶しています。

今になって思うのですが、彼の作品にはいつも「苦しみ」や「孤独」を感じます。特に最後の年に作曲された3曲の遺作のソナタに至っては、広く音楽的な意味で、演奏する上でも理解する上でも、対峙することが非常に困難であると思います。とともに、個人的には、ロマン派のピアノソナタの中でも最高傑作だと思います。

彼がサロンの中心でたくさんの人々に囲まれ演奏している絵が残されています。私が想像するに、実際のところは当時のウィーンの社交界にも出入りしていたと思われますが、本質的に、彼の心は孤独だったように感じます。もしかすると、彼のことを心から理解できた存在はいなかったのではないかと思ってしまいます。それと同時に、永らく患っていた病による、死に対する絶望感です。そのような境遇であったからこそ、達することができる境地を感じます。

先にあげた3つの遺作のソナタはもちろんですが、他の作品,中でもソナタ ニ長調 D.850やソナタ ト長調 D.894を始め、「楽興の時」D.780や3つのピアノ小品D.946などに触れていると、心から辛くなります。

また、私が言うまでもなく、彼の活動の中心はドイツ・リートと呼ばれる歌曲の作曲でした。3大歌曲集の「美しき水車小屋の娘」、「冬の旅」、「白鳥の歌」を中心に膨大な作品量です。シューベルトのピアノ作品と接していると、それらの歌曲の発想が至るところに感じられ、それと同時に(オーストリア訛りの)ドイツ語という言葉の感覚も大切に感じられます。

フランツ・リストを代表にいろいろな作曲家によって、彼の歌曲がピアノ・ソロ用に編曲されたことで、それらの歌曲が、いかに魅力に溢れたものかを物語っています。

技術的な観点から感じられることは、単純で基本的な音型にもかかわらず、大変弾きづらいということです。音の配列から、彼自身、それほどピアノの名手ではなかったと感じます。時期的にも、その後のロマン派における、ピアノ奏法の発展が開花する直前だったのでしょう。ですから、なおさら合理的な奏法で弾くことが大切です。

テンポやリズムは古典的ですが、そのような制約された美しさの中に、自由な歌心を共存させることが、シューベルトの作品を表現する上で重要に感じます。
Schubert イラスト 瀧澤宗史

(2)ロベルト・シューマン

Schumann イラスト 瀧澤宗史

彼の主要なピアノ作品の多くは若い時期に集中して作曲されています。将来、ピアニストになることを目指して練習に励んでいましたが、指を痛め、断念せざるを得ない境遇になったことも、彼の作曲家としての存在に、少なからず影響があったと思います。

そして、まだ、若い作曲家が書いたということが、作品の魅力になっているのではないかと感じます。それは、若さの持つエネルギーと夢を持った、柔軟な想像力に満ち溢れているということです。私が言うまでもなく、フロレスタンとオイセビウスという架空の対照的な存在を、自分の作品に投影したのも特徴で、文学的な発想が音楽の中に感じられます。

彼の作品に接していると、良い意味で夢の中、もしくは非現実的な精神世界を追い求めていたように感じます。「子供の情景」作品15の中の「トロイメライ(夢)」がそうした精神世界を象徴している存在のひとつとして感じられるようになりました。そこには、それまでの作曲家には見られなかったほど、その表情は甘味な美しさで満ち溢れており、にもかかわらず、実はポリフォニーでできているというのが、興味深いところです。そのことは、他の作品のいたるところでも多用されています。彼にとって、ポリフォニーという形態で作曲することが、J.S.バッハに対する深い尊敬の意味があったのでしょう。

代表作のひとつに 幻想曲 作品17 があります。なぜ、この曲を取り上げたかといいますと、彼に限らず、たくさんの作曲家が、幻想曲(Fantasie)という名の作品を書いています。多くの方が、呼んで字のごとく、曲名から、幻を想像するという感覚で思い込んでいるのではないでしょうか。しかし、これは誤解です。

本来の、特にドイツ語でのFantasieという言葉の意味は、決して幻を想像するという意味ではなく、何もない無の状態から、何か壮大なものを創造してゆくという意味で捉えるのが正しいそうです。ですから、私にとっては、「幻想曲」と日本語で訳するより、「創造曲」と訳したほうが作品の内容に一致しているように感じます。特にシューマンの幻想曲には、そのような解釈を思わせる壮大な世界が繰り広げられていると思います。また、シューマンの幻想曲のような規模を持たない、他の作曲家の作品には、本来の作曲形式を超えて自由な発想を盛り込むというような意図で幻想曲と名づけた場合が多いようです。

実際にいろいろな作品に触れてみると、彼が意図していたほどの音響効果が、実際には、それほどでもないのが残念に思います。もし、ピアノという楽器の性能と彼自身の演奏技術が、もっと違った観点で捉えられていれば、音の配置も違ったものになっていたと思います。しかし、彼の頭の中には壮大な響きが鳴っていたと思いますので、それを実現することが、難しいところでもあり、興味深いところでもあります。ですから、シューベルトと同様、彼の意図した音楽を実現するためにも、合理的で美しく鳴り響く奏法の研究が不可欠です。


(3)フレデリック・ショパン

Chopin イラスト 瀧澤宗史

私は、自分自身の奏法を変えたことにより、彼の存在の重要性を最も再認識しました。彼の作品は、合理的な奏法による、純粋にピアノに対する発想から成り立っているといっても過言ではありません。技術的にも音響的にも、ピアノという楽器の性能を知り尽くしていたと思います。本当に素晴らしいピアニストだったのでしょう。

その特徴は、あらゆる作品に見られる、即興的な走句を始めとして、それまでの作曲家の発想にはなかった、斬新な音型が物語っています。

彼は、ピアノという楽器を通して、自身の心情を率直に物語っている作曲家であり、奏者は、そこに共感を覚えなくてはなりません。それは、ある意味では不遇な、彼の人生をたどることが大切だと思います。そこには、ショパンにしかない音色のイメージが感じられます。

興味深いことに、彼の音楽上の大きな特徴のひとつなのですが、拍の感じ方にあると思います。強拍を意識し過ぎて、弾いてしまうと、つじつまが合わなくなり、音楽の流れが損なわれるのです。彼の作品においては、フレーズの始まりの音は、なぜか、弱拍に存在します。例えば、3拍子の場合、3、1、2とか、2、3、1と感じるという意味です。

私個人の見解としては、彼の故国、ポーランドのピアニストは、強拍からフレーズをとって演奏しているようで、流れが損なわれているように感じます。一方、ロシアを中心に、ショパン弾きと呼ばれるピアニストは、弱拍からフレーズをとっている人が多いようです。

このことは、音楽的な意識だけにとどまらず、実は技術的にも共通しています。例えば1拍の中に3連符や16分音符が4つあるときなども、最初の音を始まりとして弾くのではなく、それ以外の音を始まりの音として弾くことにより、弾きやすさを実感できます。具体的にあげるとすれば、練習曲 変イ長調 作品25-1の始めです。ミラドミラド・ミラドミラドと弾くところが、ミ・ラドミラドミ・ラドミラドミというようにフレーズの始まりを弱拍にします。

本来、強拍を意識し、演奏で表現することは、演奏上の基本として当たり前のことなのです。しかし、ショパンのみならず、その他の作曲家においても、実は弱拍からフレーズを感じ、意識したほうが、音楽の流れが損なわれずに表現できる場合があります。

「ショパンが弾けなくては、ピアニストにはなれない」という人もいるほど、ピアニストにとって彼の作品には、音楽的にも技術的にも、大切なことが網羅されています。私のレッスンにおいても、彼の小品から大曲にいたるまで、学習曲の中心的存在になっています。まず、ノクターンにおいてレガートを徹底的に追求し、ワルツ、マズルカ、ポロネーズで、舞曲の音楽の呼吸や表現の多彩さを学びます。ある程度、高度な段階に到達している生徒に対しては、協奏曲を基本的な技術の習得を目的として、練習させています。

私の学生時代も含め、日本の教育現場でマズルカを取り上げることは少ないと思います。それほど重要な位置を占めていないように思いますが、私個人としては、重要な作品に考えています。一般にマズルカというと、独特のリズムゆえ解釈が難しい、しかし、技術的には簡単、という理由から敬遠されているように思います。

しかし、実際にショパンの生涯において、たくさんのマズルカが作曲されています。彼がマズルカという舞曲の形式を通して、いかに多種多様なメッセージを残したかを知ることは重要だと思います。それぞれの作品は小品にもかかわらず、精神的な意味でとても深く、壮大な世界を感じとることができます。

先に、基本的な技術のために協奏曲を練習させると述べましたが、一般には練習曲集の方が重要になっていると思います。確かに、練習曲集は、魅力にあふれた作品集であり、技術の習得のために重要です。ショパン自身が協奏曲を弾くために、その中に存在する、それぞれの音型のパターンを取り出して、作曲されたものです。ただ、練習曲集のほうは同じ音型を連続して弾かねばならず、持久力が要求されます。それに比べて、協奏曲を練習するほうが、同じ音型が短く、しかも、基本的で多種多様なため、習得しやすいと考えています。

(4)フランツ・リスト

彼もまた、ショパンと同じように、ピアノという楽器を知り尽くしていた作曲家です。ピアニストとして、当時の、時代が生んだスーパースターでもあり、晩年はたくさんの優秀な門下生を輩出した偉大な教師でもありました。

察するに、私が思うところの「現代ピアノ奏法」が、世界に広まり、現在まで受け継がれているのは、彼の存在があったためと言っても過言ではないと思います。なぜならば、ショパンと同様に、彼の作品の音の配列が物語っているからです。

また、私は「現代ピアノ奏法」という言葉で表現していますが、実は、19世紀に確立された奏法だと思います。それは、ある意味では、本当に一握りの才能のあるピアニストに受け継がれたものであり、当時のすべてのピアニストが実践していたようには思いません。そのごく一部のピアニストにより、西ヨーロッパの各地をはじめ、ロシアにまで広まったのではないか、と思います。

彼の作品は、華やかで外向的なものから、内省的なものまで、幅広く存在します。代表作のひとつに、ピアノソナタ ロ短調があります。この作品には、ファウスト、グレートヒェン、メフィストフェレスといった人物が登場します。ハイドンの作品でも述べましたが、舞台演劇の要素が反映されている音楽です。

奏者は、それぞれのキャラクターを感じとり、演じると同時に、舞台監督の役目も果たさねばなりませんので、どう演出していくかということが大切になります。

また、作品によっては、次の世代の作曲家といってもよいと思いますが、リヒャルト・ワーグナーのオペラの世界につながる和声を感じますし、これが独特な官能性を帯びた魅力に思います。
Liszt イラスト 瀧澤宗史

(5)ヨハネス・ブラームス

彼の音楽に接していると、シューマンから続いてきた、独特の甘味なロマンティクな世界を感じます。ピアノ作品はそんなに多くは書いていませんが、独特の語り口で音楽が出来上がっていると思います。

私個人としては、初期のピアノソナタに見られる、若々しいエネルギーに満ち溢れていた時代。中期から後期にかけての、まるで秋を想わせるようなノスタルジックな小品集に魅力を感じます。

演奏するに当たり、考えられるのは、初期のソナタにおいては、ピアノというよりも、オーケストラが思い浮かんできます。それも編成の大きなオーケストラです。ですから、弦楽器はもちろんですが、管楽器の重要性も感じられるようになります。

そのためには、より多彩な音色をイメージし、現実に、そのような響きを鳴らすことが重要です。

中期の変奏曲、中でもパガニーニの主題による変奏曲 作品35では、ピアノの奏法の技術の追求に重点が置かれていると思います。ただ、ここで意味する奏法とは、ショパンやリストの奏法とは異なっていることが、音符の配置から感じられます。彼自身は、多分、達者にピアノを弾いていたと思いますが、それは、私の言うところの「現代ピアノ奏法」ではなく、それ以前に確立された、古い奏法だと思います。しかし、奏法を変えることにより、その難しさは軽減されると思います。

後期の小品集では、実際にピアノのために作られた、彼のきわめて個人的な世界です。ピアノから引き出すことができる音色の可能性を十分に考え、美しいレガートで歌い上げることが大切です。
Brahms イラスト 瀧澤宗史
*イラストは、瀧澤宗史氏の作品です。 

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